心の椅子

精神的支えのことを「心の椅子」と呼んでいます。思わぬ体調不良の予防に役立つと思い、このブログを立ち上げました。

カテゴリー「人生の振り返り」の目次

時系列順には書いてこなかったカテゴリー「人生の振り返り」の記事に目次を付け、リンクを貼りました。

 

 (小学校ー大学入学)

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 (大学での不調ー就職)

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 (休職時)

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 (東日本大震災グループホーム非常勤職員ー専門学校)

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【さみしさの研究18】深夜高速

高速道路のトンネルの暗い闇の中をずっと一人で走っているように感じる。
「ヘッドライトの光は手前しか灯さない」
手応えのない不確かな旅を続けている。

自分の進んでいる道が正しいのか正しくないのか、目的地に近づいているのかどうかも見積もれず、パニックを起こしそうになる。
孤独でさみしく苦しく窒息しそうになる。

SAに降り立ち、現在地を確認すれば、他の車は既にはるか遠方にいる。いや、既に所用を果たし、戻り方向で出くわしただけなのだ。
同級生は会社でそれなりの地位におり、家庭を持ち、趣味も持ち、充実している。それに引き換え、自分はどうか?
何一つ勝てるところがないと思うと、とたんに自分がみすぼらしくみじめに思える。
「それでいい」とはとても思えず、打ちのめされる

いつもそう思うわけじゃない。「自分は自分さ」「それでいいんだ」と思えるときもある。出勤して、自分の仕事をさばくのに追われているくらいが、精神衛生上は良い。帰宅後一人になったとき、一人であると感じたときにさみしさに襲われ、コンパスを失い、迷子になっている自分に気づく。

でも、年末の「さみしさの大研究」に数名来ていただき研究できた。自分にとって、当事者研究の場は安全基地だなと再確認できた。

対話の文化まつり 2024

小畑さんの対話の文化まつり2024がウイングス京都であり、参加してきました。
14時からのプレイベントでは、トーキングサークル体験会がありました。
17時からは、泉鏡花賞受賞作家の寮美千子さんの奈良少年刑務所で講師をされたときの話を拝聴しました。寮さんのエネルギッシュな語りに引き込まれました。傷ついた少年たちが、語りだすとき、それは個人によって早かったり遅かったりして、タイミングのあるものだと思います。
しかし、語ることによって、確実に何かが変容し、他の少年たちにも波及していく。その様子が浮かんでくるようでした。それは、講師の寮さん自身を巻き込んでかもしれません。最初は、重大犯罪を犯した加害少年に身構えることもあったそうですが、逆にエネルギーをもらう体験があったそうです。(友人は「ヘルパーセラピー原則ですね」と言い、私もそう思いました)
最後は、再びトーキングサークルをしました。個人情報を含むため書けませんが、いろんな語りがありました。その中で、「だれがこの場を安心・安全な場と言った(保証した)でしょうか?」という問いかけがありました。
だれも保証はしていませんが、自然とそういう雰囲気に包まれ、普段できない語りができたように思いました。
帰宅すると、心地よい疲れが出て、ぐっすりと眠れたのでした。

山田太一ドラマ「今朝の秋」

2023年末に脚本家の山田太一が逝去され、「今朝の秋」というドラマが再放送となりました。
主人公の隆一(杉浦直樹)は、働き盛りの50代だが、ガンで余命僅かで病院に入院中。告知はされていませんが、男を作り家を出ていった母タキ(小料理屋をやっている)(杉村春子)が来て、お手伝いさんのようなことをし始めたり、離婚話を切り出された妻悦子(ブティックを経営し不倫していた)(倍賞美津子)が急に面倒をみてくれたりで、自分の余命を勘づきます。
長野県蓼科に住んでいた父鉱造(役:笠智衆)は、嫁の知らせで、東京まで面会に行きます。「したいようにさせればいい」と友人から言われ、「蓼科にいってみたいな」というつぶやいた主人公の言葉を真に受けて、無断離院(!)の形で連れ出し、蓼科までタクシーで連れて行く。母は連れ戻しに追いかけてきたが、隆一にせがまれ、一緒に過ごすことにする。妻子もやってくる。
同じ山田太一脚本の「岸辺のアルバム」でも、妻の不倫はテーマの一つだったな。蓼科に行く間に、悦子と娘の会話シーンも強烈で、娘が「偽物の一家団欒ね。知っているの、お母さんが不倫していることを」
悦子は、「お父さんと違う人を好きになることもあるの」と切り返す。
最終盤で、男は寝そべりながら、家族と過ごす。父も娘も寝そべっていたような気がする。夏みかん(砂糖がふんだんにかかっている!)を皆で食べようとしている。
「ああ、家族っていいもんだなと錯覚しそうだよ」というぼつりとしたセリフが刺さる。
終わりよければそれで良しなのか、それとも…
最初はタキの顔を見るのも嫌がっていた鉱造だが、隆一がなくなり、東京に帰ろうとするタキを引き留めようとする。しかし、タキは断り、「意地を張ったんだから、もう少し頑張ってみる」と言い去っていく。
https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010435
NHKによる詳細な記事
文中のセリフはうろ覚えなので、細部は正しくないです。興味があれば、実際に見てチェックしてください(笑)

不注意

今冬初めての雪で寒いのにマフラーを忘れる。
やかんの空焚き、風呂のお湯張りの閉め忘れ、洗濯機は終わっているのに置きっぱなしをすることもある。
仕事も部屋を出た途端に忘れ物に気づく。会議を忘れることもある。
これを書いている最中に降りるべきバス停を乗り過ごしそうになった(笑)

【さみしさの研究17】ASKA

ASKAが逮捕されたときは、ショックでした。熱烈なファンというほどではないですが、チャゲアスASKAソロのCDアルバムも何点か持っていて、好きな歌手の一人でした。逮捕報道以降は、聞くことをためらいました。聞くことによって、いかなる理由でも正当化できぬ薬物に手を染めたことを認めることになりはしないか…
そんなことを恐れていたのかもしれません。

その後、福祉の仕事をするようになり、また薬物依存症は治療の難しい病気と知りました。一時の快楽を求めてというよりも、むしろ孤独さや苦しみから逃れるために、薬物に手を出してしまったのではないかと考えが変わっていきました。

その後、ASKAが活動を再開し、新聞にコンサートの広告が出ていました。そのときは、まだ聴けませんでしたが、さらにもうしばらく時間が立ってから、恐る恐る聴きました。ASKAのパワフルな歌声、繊細な詩といったものが、薬物によって壊され、落ちぶれた彼の姿をみせられたら、どう受け止めていいのかを恐れていたのかもしれないと思いました。しかし、それは杞憂でした。還暦を迎えても、なおパワフルな歌声でした。そして、歌詞はますますストレートにさみしさや人間の孤独に向き合ったものでした。以前よりも、もっとASKAが好きになりました。

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【さみしさの研究16】オープン・ユア・アイズ

主人公セサルは、イケメンでプレイボーイの金持ちの息子。親の遺産がたんまりあり、また女性にも不自由しないというなんとも羨ましすぎる境遇の若者。
冒頭、車を車庫から出して街中を走行する。ふと違和感を感じて、車を降りて周囲を見渡すと、街に誰もいない。主人公は驚き誰かを探し、目が覚める。夢だったのだ。このシーンには、観ている私も不安になった。

私たちは、街に住んでいて、日々名も知らぬ人々とすれ違い、生きている。人と人との関係は希薄にならざるを得ないが、誰もいない状況というのは、恐怖感がある。コロナ禍、仕事を終え帰宅すると、独り身の私は、PCに向かい、ある意味引きこもりのような生活になっている。コロナ禍の以前からそういう傾向はあった。今、コロナは五類になっているが、生活はそれほど変わっていない。人と近い距離で接するのが苦手。でも、まったく一人で生きろと言われれば、さみしくて耐えられない。そんなヤマアラシのジレンマを抱える。しかし、程度の差こそあれ、私だけの状況ではないとも思う。

映画の筋は、固定した女性関係を持ちたくないが、そういった関係を迫ってくる女性ヌリアがいる。一方、セサルはストリートパフォーマーの女性ソフィアに気が行く。ヌリアとのドライブ中転落し、大怪我をして大事な顔を損傷する。整形外科的に手の施しようがなく、仮面を被る生活を余儀なくされる。しかし、手術を受け、奇跡的に元通りになる。その頃から、おかしなことが頻発する。
ヌリアと思っていた女性がソフィアだったり、ソフィアと思っていた女性がヌリアだったり。
何が真実が分からなくなっていく…

映画を通して、とても不安にさせられる。そして、何不自由なく生きてきた主人公もまた孤独だったのではないかと思う。
スペイン映画であり、後にハリウッドで「バニラ・スカイ」としてリメイクされたが、私は未見。

イケメンでなくても、顔を失うということはアイデンティティの喪失であり、安部公房の『他人の顔』を連想する。主人公もまた、失われたものーそれは恐らく顔だけではないーを探し求め、もがく。

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映画『レナードの朝』

今日は、午前十時の映画祭で『レナードの朝』という映画を観てきました。
神経の難病で何十年も無反応で過ごしてきた患者(ロバート・デ・ニーロ)が、新任の医師(ロビン・ウィリアムズ)によるケアと新薬によって、立ち上がったり話せるようになったりと劇的に回復します。音楽を楽しみ、外出もできるようになります。
しかし、副作用のために、痙攣が起こり、やがてまた以前のような状態に戻っていきます。
回復の見込みがないと悟り、思いを寄せる女性に病院の食堂で別れを告げますが、女性が引き止め、踊ったことがないという男にその場でダンスを踊るシーンが泣けました。

午前十時の映画祭シリーズを見ていますが、今年だけでも『ディア・ハンター』『レイジング・ブル』『ゴッドファーザーⅡ』、去年も『未来世紀ブラジル』があり、デニーロ出演率が高い(笑)と思いました。本当にそれぞれの作品で、役に入り込む(当たり前といえば当たり前なのでしょうが)姿勢がいいですね。

細川貂々さんと当事者研究

ツレがうつになりまして」を読んだときは、生真面目でうつのツレさんに切れることはあるけれど、ツレさんを支える寛容でホンワカした奥さんというイメージでてんてんさんを捉えていました。
「生きづらいでしたか?」やその刊行時のトークイベント(釈先生やNPO「そーね」の一ノ瀬さんと)
https://www.loft-prj.co.jp/schedule/west/114228
では、ご自身を「ネガティブ思考クイーン」とおっしゃり、大分イメージが違うものを感じました。

てんてんさんは、生きづらさを赤裸々に描かれるところが面白くて、そういうときの言葉にある種のリアリティや重みがあり、すごく伝わってくるものを感じました。
当事者研究では、そういう言葉を大事にしたいなと思っています。

でも、いきなりうまくやれるはずもないのかなと思っております。
「生きづらいでしたか?」では、『「そーね」の当事者研究がはじまって4年くらい経つのですが
3年目くらいまではものすごく苦労しました』と一ノ瀬さんの苦労が書かれています。
「自分の苦労をお話ください」と提案しても、なかなかお話されない様子が描かれています。

それはそうだろうと思います。場や相手を信頼できぬうちは、お話できないものだと思います。
だから、「無理に話してください」とは言わないつもりです。雑談で終わればそれも良しと思うのです。

zoom上の私の当事者研究も、第一回目は誰も来ないところから始まりました。
2回目はFacebook上の友達のつてを使い、呼びかけ人を集めました。
とりあえず来てくれた人、これからも参加してくれそうな人がでてきて、少しずつ場が温まっていったようです。
軌道に乗るまで、最低一年くらいはかかったのだと思います。

そんなわけで、新しい場所でリアルでやらしてもらう当事者研究、あるいはお話する場も、最初からいきなりうまくいくはずもないのだと思います。スタッフや参加者の力を借りて、少しずつ形にできたらいいなと思っています。ぼくなりに「種をまきをみずをやり、場を育ててみたい」と思います。

【さみしさの研究15】さまざまなさみしさ

さみしさにも色々と種類があるようだ

大学時代の飲み会の中で、話をうまく盛り上げられずに感じる孤独感
飲み会前は盛り上がりたいと願うが、大抵そうはいかず、帰り道に一層さみしさを感じた
そもそも、飲み会で急に深まるような関係って、なんだか一過性のような気もするが…
→ このときに感じるものは、「(行き場のない)やるせなさ」というもの

家族に対して、大事な話をしているのにまるで伝わらない
こちらは大真面目で伝えているのに、相手は聞く耳を持たない
話半分で取り合おうとしない
怒りで沸騰しそうな気持ちも抑えないといけない日はつらいものがあった
→ 「言葉や気持ちが伝わらない悲しさ」というもの

連休の最終日、誰にも会わずに一人過ごす
そういう日が暮れかかる夕方頃に感じるさみしさ
「今日は何もできなかった」とふと感じる
→ 「虚しさ」に近いもの

それだけならまだいいのかもしれない
次の日に職場で「連休何をしていましたか?」と尋ねられ、何もなかったことを語らされ、
「さみしい人」と思われることを一番恐れているとあるとき気づいた

さみしさにも実は、いろんなものが含まれている
いいさみしさもあれば、悪いさみしさもある
後者は放っておくと致命傷になる

ただ、人間本来がさみしいものだとも思う
結局は一人で生まれ、一人で死んでいく存在なのだ
その孤独に関しては逃げることはできない

過去のいろんな体験が僕を作り上げてきた
その中には、さみしさや傷も含まれている
さみしさから逃げられないのであれば、それを噛みしめて生きたいと思うのだ