心の椅子

精神的支えのことを「心の椅子」と呼んでいます。思わぬ体調不良の予防に役立つと思い、このブログを立ち上げました。

大学職員として

大学では図書館職員の仕事をした。カウンターに立ち貸出返却配架の業務をした。留学生相手に簡単な英語で応対することもあった。心機一転また頑張ろうと思った。同期も寮に4-5人いて、一緒に遊びに行ったり、合コンに行ったこともあった。体調不良を起こして、急遽休むこともあったが、なんとか仕事を続け、職場の方ともそれなりにやれたと思う。

しかし、ここでも転居に伴う転院はスムーズには行かなかった。よく分からずに行った精神科病院に行くと、ベッドがあるかなり大きな診察室に案内された。精神科医が、ベッドに横たわるように言い、触診してきた。精神疾患の背後に身体の病気が隠れていることもあり、触診もあるのかなと思ったが、違和感も感じた。今まで転院先の初診で、触診を受けたことは無かったからだ。
その後、精神科医は「うつよ~とんでいけ~」と言った。私も言うように言われ、アホらしさよりも恐怖感を感じた。この医師に命を預けられない。診察室を出て、受付の男性に言って、紹介状を取り戻した。簡単に返してくれたので、ひょっとするとそういうことにその男性も慣れていたのかも知れない。保健所に相談して、近くのクリニックを紹介してもらった。その精神科医は、よく話を聞いてくれた方だと思う。「フフフ」という含み笑いが癖の医師だった。

二年目を迎える頃、部長に呼び出され、中央省庁に一年間研修に行かないかと打診された。「あなたの学歴を活かすにことになると思う」と言われた。評価されたと思い、受けることにした。そして、東京に行くことになる。しかし、デスクワークで一切体を動かさない仕事だった。同じような立場の研修生や横の教育係の方はよくしれたと思う。

電子政府の推進というお題目はあるが、省の本音は、「できない」や「されては困る」であった。「やろうとしてます」というアリバイ作りに加担するような仕事で、私は意義や面白みを見いだせなかった。加えて、役人のしきたりや文法がわからず、上司に「分かってないな」と渋い顔をされることがよくあった。いろんな照会依頼をどの部署に割り振っていいかを上司と相談するような仕事だった。それが何件も重なると大変だ。大元の期限も短く切られ、間に合わせるのも大変だった。提出が遅い部署に催促の電話を入れると、「他の業務もあるから~」とキレられた・・・
ただ、国会待機(国会での答弁書を役人が用意するための待機、徹夜も珍しくないという)がないだけましとは言われた。実際、タクシーチケットを使ったのは一回だけだった。

概算要求の書類の打ち込みを任された。財務省とつながる端末は数が少なく、取り合いだった。それが一段落した日に出勤できなくなった。要因は分からないが、職場の人間関係に疲弊したのだろう。その後半年、ほとんど出勤できなかった。朝起きて、欠勤の連絡をしてから、寮でぼーっとしていた。食事はレトルトカレーをあたためる程度だった。生活に色彩感覚を無くし、楽しみもなくなっていた。以前から不眠症だったが、さらに激化した。全く眠れる気配が無い。体を疲れさせようと思い、一度寮の周りを走ってみたが、全く眠気が来ないことにショックを受けた。

3月に研修修了書だけはもらって大学へと戻ったが、当然人事課長からきつい叱責を受けた。図書館に戻されたのは良かったが、そこも続かず、アパートで引きこもり状態になった。

大学の産業医から、県内の図書館を回ってみてはと提案されて、自転車で回ってみたことがある。山の方、海の方など自転車で国道を走って体を動かしたのは、それなりに思い出に残っている。
一時期少しだけ調子が良く、リハビリ出勤も少し続いた時期もあった。しかし、そこから時間を長くしようする日に休んでしまって、流れを切ってしまったことがある。こういうことってあるなと思う。このままの流れで行きたいというときに限ってポキっと折れてしまう。病状が安定しない時に何度か経験したし、他の患者をみてそうだな思うときもある。

アパートでは、ニンテンドーDSで、朝から晩までひたすらテトリスDSの4人対戦をしていたのを覚えている。スピン(ミノを回転させて、並びを完成させると特典が高くなる技)の仕方をネットで調べたりした。その頃は、2ちゃんねるもよく見ていた。将棋倶楽部24というサイトでオンライン将棋もしていた。
過食も始まっていた。夜中に、シュークリーム5個入、カップ麺(やかんで沸かすのが面倒で、コーヒーメーカーで湯を沸かした。少しぬるい)、コーラ(ダイエットコーラではない)を飲み食いした。あっという間にスーツが着られなくなり、引っ越しの際に処分せざるを得なかった。今よりも20kg(90kg近い)はあった。誰の目にも明らかなほど、太ってしまった。

しかし、結局、実家に戻って療養することになった。医師からは、復職デイケアがいいかもと言われたが、県内には無いということだった。大学から実家に戻る前に、産業医から、母親を呼ぶように言われたので、母に京都から来てもらうように依頼した。しかし、約束の時間に待ち合わせの場所に私はしんどくていけなかった。アパートの住所を知っていた母が、タクシーで来てくれた。その日は間に合わなかったが、翌日産業医と面談できた。
私が回復したあと、母はよく、私が来なかったエピソードを鉄板ネタのように繰り返し言うのには閉口した。確かに迷惑をかけたとは思うが、それだけ病状が重かったということであり、配慮に欠ける発言だなと、いつも思った。