心の椅子

精神的支えのことを「心の椅子」と呼んでいます。思わぬ体調不良の予防に役立つと思い、このブログを立ち上げました。

【さみしさの研究16】オープン・ユア・アイズ

主人公セサルは、イケメンでプレイボーイの金持ちの息子。親の遺産がたんまりあり、また女性にも不自由しないというなんとも羨ましすぎる境遇の若者。
冒頭、車を車庫から出して街中を走行する。ふと違和感を感じて、車を降りて周囲を見渡すと、街に誰もいない。主人公は驚き誰かを探し、目が覚める。夢だったのだ。このシーンには、観ている私も不安になった。

私たちは、街に住んでいて、日々名も知らぬ人々とすれ違い、生きている。人と人との関係は希薄にならざるを得ないが、誰もいない状況というのは、恐怖感がある。コロナ禍、仕事を終え帰宅すると、独り身の私は、PCに向かい、ある意味引きこもりのような生活になっている。コロナ禍の以前からそういう傾向はあった。今、コロナは五類になっているが、生活はそれほど変わっていない。人と近い距離で接するのが苦手。でも、まったく一人で生きろと言われれば、さみしくて耐えられない。そんなヤマアラシのジレンマを抱える。しかし、程度の差こそあれ、私だけの状況ではないとも思う。

映画の筋は、固定した女性関係を持ちたくないが、そういった関係を迫ってくる女性ヌリアがいる。一方、セサルはストリートパフォーマーの女性ソフィアに気が行く。ヌリアとのドライブ中転落し、大怪我をして大事な顔を損傷する。整形外科的に手の施しようがなく、仮面を被る生活を余儀なくされる。しかし、手術を受け、奇跡的に元通りになる。その頃から、おかしなことが頻発する。
ヌリアと思っていた女性がソフィアだったり、ソフィアと思っていた女性がヌリアだったり。
何が真実が分からなくなっていく…

映画を通して、とても不安にさせられる。そして、何不自由なく生きてきた主人公もまた孤独だったのではないかと思う。
スペイン映画であり、後にハリウッドで「バニラ・スカイ」としてリメイクされたが、私は未見。

イケメンでなくても、顔を失うということはアイデンティティの喪失であり、安部公房の『他人の顔』を連想する。主人公もまた、失われたものーそれは恐らく顔だけではないーを探し求め、もがく。

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