心の椅子

精神的支えのことを「心の椅子」と呼んでいます。思わぬ体調不良の予防に役立つと思い、このブログを立ち上げました。

人生万事塞翁が馬

2011年は自分にとって運命が大きく動いた大きな年だった。休職退職し実家に戻り療養したいたものの、うつ病に苦しんでいた。そのときはあまり気づかなかったが、自分の家族は機能不全家族でとてもストレスの大きなものだった。そこに居ては、休養もままなならぬことに気づいていなかった。

その頃、ある就労移行支援事業所に通っていたが、出席することすらままならず、5割程度の出席率だった。

その年の2月に、母が大腿骨を骨折し、救急車で近くの病院に運ばれた。残された姉との二人暮らしとなった。具体的にはよく覚えていないが、とてもしんどかったようだ。ちょっとしたことで姉の機嫌がコロコロ変わることにビクついていた。

さらに、その一ヶ月後東日本大震災が起こった。そのときお寺の営繕の実習に行っていたことを覚えている。遠く京都でも揺れを確かに感じた。直接被害を被ったわけではないが、原子力発電所に放水するシーンがテレビで来る日も来る日も映し出され、この世の終わりを見ている気がして、人間の無力さと絶望感を感じた。

兄と姉と一緒に母の入院するリハビリ病院まで兄が自家用車を運転し、面会に行った。姉が母のお金を預かっていたが、一切記録をつけていなかった。母のお金と自分のお金の区別もつかないし、いい加減なものだ。帰りの車の中で、母のお金の出納帳を作る話をすると、使い込みがバレるので困ったのだろう、姉は「(車から)降ろせ」とキレ出した。困ったらキレればいいという姉の黄金ルールである。そういったごまかしやずるい部分だけ長けてしまった人だ(そしてそれを影で支えていた人が母である)。応対に私も兄も困ったが、結局連れて帰った。

姉との二人暮しに疲れ果てて、母が退院するのと入れ違いに私が精神科病院に入院した。退院後、ほどなくグループホーム(以下GH)入所となった。なぜ、GHということになったのか今でもよく分からない。推測でしか無いが、入院中は平穏に過ごすが、一定期間経つと回転ドア現象ですぐ戻ってくる私の姿を見て、主治医や支援者側にそういうアイデアが浮かんだのかもしれない。

その頃、既に主治医は男性の医師(=現主治医)に代わっていた。薬剤調整によりいつもいいところまで回復するが、それがポキリと折れて、キープできないというもどかしい日々が続いた。「もうこれ以上、よくならないですかね?」と診察の場で弱気な言葉を吐いたところ、現主治医は「みじんも諦めていません」と怒るでもなくサラッとしかしキッパリと真顔で仰った。私は感動して鳥肌が立った。この精神科医を信じないわけにいかないと思った。その後も病状に一進一退はあったけれど、気持ちがだんだんと前向きになっていった。

現主治医も勧めてくれたこともありGH入所に同意したものの、そういうところに厄介になるのは、恥ずかしいというか、私の病気もネクストステージに行ったのかなどと思い、軽くショックを受けたと思う。しかし、実にGH入所から私の(少し大げさかもしれないが)奇跡的なリカバリーストーリーは始まったのだ。「人間万事塞翁が馬」というのは、本当によく出来た故事成語だと思う。

厳しい世界だからこそ

コロナ前からテレビをほとんど見ない生活になり、さらに去年DVDレコーダの自動録画サービスも終了となり、本格的にテレビから遠ざかっております。

今日、たまたまTBSの「サンデーモンーニング」を観ました。4月から司会者交代になり、関口宏さんの最終回のようです。
1週間前に新入幕の尊富士が優勝のニュースが取り上げられました。千秋楽の前日の取り組みで右の足首にけがをして救急車で病院に搬送され、車椅子の状態だったにもかかわらず、千秋楽に出て勝ち、優勝を決めたと。それを美談のように報じられることに違和感を感じました。

2001年に貴乃花が優勝した時、小泉首相(当時)「痛みに耐えてよく頑張った。感動した! おめでとう!」の言葉を思い出した。貴乃花は、そのとき、右膝を亜脱臼していたという。

プロのスポーツ選手が、怪我を押して試合に出ること、それはその選手の判断であり、素人が口を挟むことではないのかもしれないと思いつつ、もやりとする。
結果が全ての世界なのかもしれないが、「怪我を押してや無理することが当然」ということになるのが怖いと思った。プロスポーツだけでなく、高校野球でも、一人の投手が全試合当番して、肩を壊してしまい、プロになれなかったり、プロ入りしても泣かず飛ばずのまま引退という話も聞く。

昔は、とんでもない間隔で投げていたプロ野球選手もいるが、最近はローテーション間隔をきちん守り、1試合の投球数の上限の目安を定めるようになったと聞く。投手交代後、すぐにアイシングしている風景も見たことがあります。

厳しい世界だからこそ、最高のコンディションで試合に望んでほしいと思うのです。

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hochi.news

大学職員として

大学では図書館職員の仕事をした。カウンターに立ち貸出返却配架の業務をした。留学生相手に簡単な英語で応対することもあった。心機一転また頑張ろうと思った。同期も寮に4-5人いて、一緒に遊びに行ったり、合コンに行ったこともあった。体調不良を起こして、急遽休むこともあったが、なんとか仕事を続け、職場の方ともそれなりにやれたと思う。

しかし、ここでも転居に伴う転院はスムーズには行かなかった。よく分からずに行った精神科病院に行くと、ベッドがあるかなり大きな診察室に案内された。精神科医が、ベッドに横たわるように言い、触診してきた。精神疾患の背後に身体の病気が隠れていることもあり、触診もあるのかなと思ったが、違和感も感じた。今まで転院先の初診で、触診を受けたことは無かったからだ。
その後、精神科医は「うつよ~とんでいけ~」と言った。私も言うように言われ、アホらしさよりも恐怖感を感じた。この医師に命を預けられない。診察室を出て、受付の男性に言って、紹介状を取り戻した。簡単に返してくれたので、ひょっとするとそういうことにその男性も慣れていたのかも知れない。保健所に相談して、近くのクリニックを紹介してもらった。その精神科医は、よく話を聞いてくれた方だと思う。「フフフ」という含み笑いが癖の医師だった。

二年目を迎える頃、部長に呼び出され、中央省庁に一年間研修に行かないかと打診された。「あなたの学歴を活かすにことになると思う」と言われた。評価されたと思い、受けることにした。そして、東京に行くことになる。しかし、デスクワークで一切体を動かさない仕事だった。同じような立場の研修生や横の教育係の方はよくしれたと思う。

電子政府の推進というお題目はあるが、省の本音は、「できない」や「されては困る」であった。「やろうとしてます」というアリバイ作りに加担するような仕事で、私は意義や面白みを見いだせなかった。加えて、役人のしきたりや文法がわからず、上司に「分かってないな」と渋い顔をされることがよくあった。いろんな照会依頼をどの部署に割り振っていいかを上司と相談するような仕事だった。それが何件も重なると大変だ。大元の期限も短く切られ、間に合わせるのも大変だった。提出が遅い部署に催促の電話を入れると、「他の業務もあるから~」とキレられた・・・
ただ、国会待機(国会での答弁書を役人が用意するための待機、徹夜も珍しくないという)がないだけましとは言われた。実際、タクシーチケットを使ったのは一回だけだった。

概算要求の書類の打ち込みを任された。財務省とつながる端末は数が少なく、取り合いだった。それが一段落した日に出勤できなくなった。要因は分からないが、職場の人間関係に疲弊したのだろう。その後半年、ほとんど出勤できなかった。朝起きて、欠勤の連絡をしてから、寮でぼーっとしていた。食事はレトルトカレーをあたためる程度だった。生活に色彩感覚を無くし、楽しみもなくなっていた。以前から不眠症だったが、さらに激化した。全く眠れる気配が無い。体を疲れさせようと思い、一度寮の周りを走ってみたが、全く眠気が来ないことにショックを受けた。

3月に研修修了書だけはもらって大学へと戻ったが、当然人事課長からきつい叱責を受けた。図書館に戻されたのは良かったが、そこも続かず、アパートで引きこもり状態になった。

大学の産業医から、県内の図書館を回ってみてはと提案されて、自転車で回ってみたことがある。山の方、海の方など自転車で国道を走って体を動かしたのは、それなりに思い出に残っている。
一時期少しだけ調子が良く、リハビリ出勤も少し続いた時期もあった。しかし、そこから時間を長くしようする日に休んでしまって、流れを切ってしまったことがある。こういうことってあるなと思う。このままの流れで行きたいというときに限ってポキっと折れてしまう。病状が安定しない時に何度か経験したし、他の患者をみてそうだな思うときもある。

アパートでは、ニンテンドーDSで、朝から晩までひたすらテトリスDSの4人対戦をしていたのを覚えている。スピン(ミノを回転させて、並びを完成させると特典が高くなる技)の仕方をネットで調べたりした。その頃は、2ちゃんねるもよく見ていた。将棋倶楽部24というサイトでオンライン将棋もしていた。
過食も始まっていた。夜中に、シュークリーム5個入、カップ麺(やかんで沸かすのが面倒で、コーヒーメーカーで湯を沸かした。少しぬるい)、コーラ(ダイエットコーラではない)を飲み食いした。あっという間にスーツが着られなくなり、引っ越しの際に処分せざるを得なかった。今よりも20kg(90kg近い)はあった。誰の目にも明らかなほど、太ってしまった。

しかし、結局、実家に戻って療養することになった。医師からは、復職デイケアがいいかもと言われたが、県内には無いということだった。大学から実家に戻る前に、産業医から、母親を呼ぶように言われたので、母に京都から来てもらうように依頼した。しかし、約束の時間に待ち合わせの場所に私はしんどくていけなかった。アパートの住所を知っていた母が、タクシーで来てくれた。その日は間に合わなかったが、翌日産業医と面談できた。
私が回復したあと、母はよく、私が来なかったエピソードを鉄板ネタのように繰り返し言うのには閉口した。確かに迷惑をかけたとは思うが、それだけ病状が重かったということであり、配慮に欠ける発言だなと、いつも思った。

公務員試験

その後、実家に戻り、身分の安定した公務員試験を受けようと思い、公務員試験の学校に通った。化学系で国家Ⅰ種も受けようと思っていたのであれば、大手の学校に行けばよかったのだが、たまたま広告に載っていた学校にしてしまった。そこは技術職ではなく総合職向けだったので、少し後悔することになる。勉強自体は好きなので、教養試験は最初からそこそこ取れた。しかし、専門科目は自力で勉強しなければならなかった。大学入試に近い問題もあった。

国家公務員試験Ⅰ種の問題を解いているとき、時間が足りず、思わず何か叫んでしまった。周りの人からヘンな目で見られただろうな。大学受験時にも解いていたレベルの物理の問題であり、万全の心身の調子なら解けたはずだっただけに、くやしいという思いがそうさせたのだろう。結果、Ⅰ種と地方公務員は不合格で、Ⅱ種だけ通った。人事院面接は通ったが、お声はかけてくれるところはなかった。聞くと、見学に行った際に、採用側が早々と決めてしまうものらしい。お声がかかれば行きますと、意向確認の書類だけは毎月送っていたが、なんともやりきれない定型作業で、望みは薄かった。

その間、仕事がなく、塾講師のバイトをしていたが、そこでもうまくいっておらず、週1回、一人の生徒をみるだけになってしまっていた。そして、とうとう「次から来なくていいです」と校長から解雇通告された。「ああ、もう居場所ないな」と思った翌日に、ある国立大学から声がかかった。

就職と終戦記念日

傷心の修論発表後ひきこもり生活をしていた。内定をもらっていた会社に行けるかどうかさえ自信がなかった。入社式に行き、片田舎の工場で一年間研修を受けることになった。研修とは言え、人手不足の現場の応援の意味合いもあった。
なんとか頑張って、やり直そう、立て直そうと思った。同期すべてが入寮し、生活をともに出来たことが、心の安定につながったと思う。仕事の内容は、検査業務だった。ただ扱うものが1個20kgするものもあり、汗をかく肉体労働だった。肉体労働は好きではないが、そのときは心にプラスになったようだ。最初の日が夜勤できつかったけれど、なんとか一年間やり通せた。入社して、寮でF君に呼び止められ、お酒を誘われた。F君とは、退社後も遊びに行ったりして、付き合いが続いた。

大学の精神科からの紹介状を頂いた。しかし、具体的にどこかを紹介してほしいと伝えても、よく知らないと言われた。その精神科医が不親切だいうつもりはなく、これはよくある話で、実際その後も引っ越しのたびに、転院先をどうするか悩んだ。(私は今精神科病院の相談員をしているので、患者にとって転院先探しが結構大変なことはよくわかる。精神科医に探す時間的余裕はない。相談員が配置されていればいいが、そういった医療機関は少ないのだ。)
初めての土地で、どの医療機関の評判がいいとかわからない。でも、薬が切れないように、予約をとらないといけない。引っ越しのストレスで、しんどい状態で、すべてを自分でこなさないといけないのはつらかった。よくわからなくて、公立の医療機関へ行った。しかし、あまりに遠くて、近くの病院を紹介された。交代勤務なので、夜勤終わりに受診することもあった。カウンセリングを受けたが、カウンセラーがとぼけた人で、あまり効果がないと感じた。一度手紙にしてみてもらおうとしたが、「そうですか」と言って、何も目を通さないのには失望した。医療機関にもヘンな人はいる。それは今でも思うし、その中に私も入っているのかも知れない。医療・福祉への失望につながるかも知れないが、あたりはずれはある。その覚悟は、職員にも患者にも必要なのかも知れない。

他部署に一日だけ応援に行く日に、4時間!寝過ごしたことがある。6時勤務開始の朝勤務の時に、目覚めたら10時だった。いつもの部署に行って、上司に報告したら、「えっ」と言われ、後で課長から注意を受けた。同期で遅刻する人はいたが、さすがに4時間遅刻する人は私の後にも先にもにはいなかった。
同期の中に気の合う人も気の合わない人もいたけれど、同じ屋根の下を一年間過ごすのは、高校時代の親密さを思わせた。だから、まがりなりにも一年間頑張れたのだと思う。

二年目は別の工場で開発職となった。その部署は、上司や先輩の目つきが尋常ではなかった。みなイッている目をしていた。笑いがないわけではないが、みながワーカホリックだった。土日のうち、どちらかを勤務するのは当たり前、朝勤務の始まり前(6時)に来て、夜勤始まり(18時)に帰るような生活だった。残業時間は200時間の枠で組合とは話をつけていると言われた。実際に、200時間まで働くことはなかったが、恐ろしく過酷な労働環境だった。きちんと残業手当はついたが、体がもたなかった。そんな勤務をしていたので、精神科に行くことすらできなかった。

精神科薬が切れてしまった時期もあり、まずいと思い、総合病院の精神科に行った。その精神科医がちょっと面白い人だった。社会人経験を経てからの精神科医で、私が職場のしんどさを話すと、精神科医は、研修医時代麻酔科医にいじめられて苦労しただとか、ご自身の苦労を語ってくださった。半年しか福井県にはいなかったので、それだけの間の診察だったけれど、印象に残っている。あるときは、友人が撮ったオーロラの写真をメールで送ってくれたこともあった。

実験計画書を出すように言われたが、そのやり方がわからず、できなかった。必要な実験器具をどうそろえていいかも分からなかった。先輩は常に忙しそうで、教えてくれる余裕がなさそうだった。22時会社に居残って、どうやっていいかわからず、途方にくれていたら、先輩からファミレスに呼び出され、説教された。

良品を全く出せずに困った。製品数もいつのまにか、当初の2倍、3倍になっていった。
「そんな!まだ、良品をうまく出せていないのに」と思ったが、上司はお構いなしのようだ。

会社に寝泊まりしていた。ゴールデン・ウィークに休みはなく、四六時中働いていた。作業中に立ったまま寝ていたこともあった。寮に帰る際、自動車を運転中、眠気に襲われた。すこし渋滞していたとき、停車したときに眠気が強くなる。前の車に突っ込んではいけないと思い、ブレーキを強く踏んだ。その次の瞬間、景色が飛んだ。やはりブレーキを踏んだ。しかし、前方に車は見えない。よく見ると、既に寮の駐車場にいて、ニュートラルでハンドブレーキも引いていた状態だった。事故にならなかったことは良かったが、非常に危ない状態だった。

体調が悪く、会社の研修を休んだ。その頃から休みが目立った。上司に異動をお願いしたが、「今、君を行かせる部署はない」と言われた。辞職願は一回無かったことになったが、結局退職することとなった。退職日が終戦記念日だった。私の心も敗戦一色だった。

大学に続き会社でも不適応を起こす。そして、それはある意味予想通りだったとも言える。

研究室時代

実験系の研究室に入った。研究機器には触ることなく、院試の勉強をしてくださいというスタンスだった。院試を受けない人にとっては、何の制約もないことになり、就職活動に専念する人もいれば、自分の道を探すという人もいた。私は就職する気にもなれなかった。働くことが怖かったし、人と触れるのが怖かった。会社でうまくやれるイメージを持てず、ただ怖かった。勉強することは嫌いではなかったが、修士課程に進むことは、勉強を積極的にすると言うよりも、モラトリアムの延長という意味が大きかったと思う。

研究室を選べずパニック状態で引きこもっていた私も、なんとか研究室を選べたこと、学生相談所につながったことや院試合格という共通目標を持てたことでまた少し安堵感を持った。実際、院試の過去問を解く勉強はそれほど苦ではなかった。同期と勉強会にも参加した。結果は無事合格。面接では、相図(温度、圧力、組成などで、物質が気体・液体・個体の相を取るのかを現す図)をきちんと理解しているとほめられた。

院試後は、同期4人で、研究し発表することとなった。研究内容と何をしたかも覚えていない。興味をもってやれたわけではなかったのだろう。

修士1回生に進むが、K先輩の下につく。毎日来れず、ちゃんと機器を扱えず、その時点で落第のようなものだった。K先輩は、「それでは駄目だ」とダメ出しをしたりしたが、そのとおりだと思った、K先輩は有言実行の人ですごいなと思ったし、敵わないと思った。きちんと目標設定し、逆算し段取りを組み、きちんと行動する人で、私とは違い教員からの信頼も厚かった。兄のような頼もしさを感じた。

K先輩は、助教授が設計した観測機器を組み立てることから始めていて、実験データを取れるようになるまでスタートアップの時期にはなかなか足踏みの状態が続いたようだった。へこたれる様子を見せずに、淡々とやれることをやるという態度だった。

私ではK先輩のパートナーにはなれないと見越してか、助教授は卒業予定のO先輩があく実験機器をあてがってくれた。しかし、本当に実験機器の不調が多く、クラッシャー状態だった。私のミスで不調にしたのもあるし、なんだかよくわからないけれど不調になるのもあった。それに対して、何が原因で、どういうアクションをすべきかを判断するのも実験屋のセンスなのだが、そのセンスもなかった。ただただオロオロして、装置に触るのがおっくうになり怖くなっていった。O先輩のときはちゃんとデータが取れていたものを私はまったく引き継げなかった。無能としか言いようがなかった。恥ずかしいことに、金曜日の研究報告会も何も成果を言えなかった。

修士論文は本当に中身のない、コピペ論文だった。論文不正事件の際に、修士論文や博士論文のひどいものがあると言われるが、私の修士論文のでき悪さは、どうしようもなかった。何しろ、訴えたいものがよく分からなかったし、データが全く無いのだから、どうしようもない。教員も頭を抱え、早く卒業することを望んでいただろう。

研究室で発表練習しても、取り繕いようのないものはどうしようもない。最後の研究室発表では、教授から「君が英語がしゃべられないのは分かっていたが、日本語もしゃべられないんだね」と言われ、心に深く刺さった。
本番が、10分の持ち時間があり、質疑応答が嫌ならば、できるだゆっくり喋って時間を稼ぐようにアドバイスされたが、私の特性上、アガると早口になり、終わってみるとまだ残り時間が4分もあった。質疑応答で質問されたが、何を尋ねられどう答えたかよく覚えていない。「終わった。全てが終わった」その日から、一ヶ月以上大学に行かず、引きこもった。歓送迎会も無視していたが、結局行った。

材料メーカーへの内定は取っていたが、果たして入社式に行けるのだろうか?まったく自信がなかった。なぜなら、その時点で私はもう壊れていたのだった。すぐに精神科のストレスケア病棟に入院していいレベルだったと思う。失意の中、酒で気を紛らわし、テレビをみるだけの退廃した生活だった。その頃のことはよく覚えていない。大学生活、まじめに勉強しなかったこと、不純な同期で研究室を選んだ報いとも思えた。

K君のこと

大学では友達がほとんどできなかったのだが、囲碁部でK君というすごい友達と出会えたことは、私の人生の宝物になっている。高校は別のところだったが、一度高校の大会で会っていた。とにかく個性的な奴だった。『風の谷のナウシカ』のワンシーンをそっくり暗唱したり、昼間から部室で酒を飲んだり、競馬も好きで。先輩と賭碁もしていた。破天荒な感じもしたが、先輩とも後輩とも同級生ともよく話をしてきて、友達や知り合いがとても多かった。
一度私の高校の腕の立つ後輩が、同じ大学に入学したのだから、連絡して部室に連れてこいと言われた。後輩とは言え、あまり交流が無い人だったので、どうしようかとまごついていたら、いつの間にかK君が連絡をつけて入部させていて、私はバツの悪い思いをしたが、K君の人付き合いの才能には感服した。

言う必要があるのか無いのか判断に迷うが、彼は身体障害者(多分脳性麻痺)で、歩くときは足に補装具をつけていた。最初は私より少し上くらいの棋力と思っていたが、そうではなくて、全然歯が立たないと思い知らされた。定石の知識が豊富だったし、研究熱心だった。なにより強い知り合いにも事欠かなかった。

いろいろと私にも声をかけてくれた。どうしようもなくマズい碁の感想戦でも、「ここはおかしい」「こう打つところ」といろいろアドバイスしてくれた。そのときの彼はもちろん真剣だった。明らかに弱い私の碁に対してアドバイスしてくれた。負けたときはつらいけれど、彼のアドバイスが有難かった。

先輩と3人で、ビール缶の1箱飲み明かすことにも参加させられた(笑)とにかく誘い上手、乗せ上手だった。私はお酒が嫌いではないが、すぐに顔に出る。K君と先輩はとんでもなく強かったので、とてもペースや量についていけず、翌朝トイレでひどい目に遭ったのだった。面白い奴だった。いつも冗談を言っていた。ときには、先輩から反感を買うこともあったようだが、それも含めて愛されるキャラだった。

大学選手権の予選でも、相手の大学の方と親しげに話している。またあるとき、彼の競馬に付き合うと、K君が誰かに声を欠けていた。よく見ると、テレビにも出ている囲碁棋士のS先生であた。その様子を見ていて、「ああ羨ましい。人と話せる能力分けて欲しいわ」と思ったものだ。飲み屋の店員と仲良く喋ったり、碁盤を置かせてもらったりと。アクティブで交渉上手な人だった。

前述したように、彼はお酒が強い。だけれど、酔うとさすがに足元がふらつく。しかし、私の肩はあまり借りようとせずに、先輩が肩を貸していた。彼の強がりを感じ、少し残念な気持ちになった。もっとも、私の肩の貸し方がうまくなかっただけなのかもしれないが…

彼は大学卒業後、一人暮らしを始めた。足が不自由な彼が一人暮らしをするというのは、当時の私には無謀なことのように思えた。一度行ってみると、服が乱雑に積み重なっていたりで、整っているとは言えなかった。しかし、彼は確実に自立生活していたのだった。

彼とは大学卒業後たまに会うことがあった。私がうつ病になったと言ったら、「ああそうか」「焼肉食べにいこう」と言ってくれた。後につまらないことで音信不通となり、その後彼は30代の若さで急逝した。彼は念願の囲碁観戦記者になっており、その所属先の新聞社のネットニュースで訃報を知った。記事の日付は亡くなってから半年も経っていた。私は、自宅の電話番号を知っていたので、K君の父にコンタクトし、仏壇に手を合わせ、思い出話をさせてもらった。

今、その後自分が精神障害者となり、また精神保健福祉士となった。彼の自立の意味や意義が、深く感じられるように思う。障害者も、家を出るタイミングがあるのだと思う。

大学時代ー囲碁部編

入学して、囲碁部に入部した。高校も囲碁部だったので、自然ななりゆきだった。入学式後の茶話会に来ていた一つ上の先輩がちょうど囲碁部員だったので、そのまま入部となった。囲碁というゲームに夢中になっていたし、手狭な部室もそれはそれで親密な空間だった。先輩たちは、あまり単位がないことを逆に自慢するような風潮もあった。
私もいつしか、授業に出なくなっていった。語学は落とすとヤバいということは聞いていたので、その教えを守り語学だけは出ていた。それと、その頃から朝起きるのが、10時以降になっていた。深夜のTVを見て、夜更しをしていて、生活リズムが狂っていたのだった。心身の変調が既に起こっていたが、授業をサボってもなんとかなる大学のシステムでは、その不調が他者に見えづらくなっていたのだった。

大学囲碁界でタイトルを取る先輩もいて、非常にレベルの高い世界だった。個人戦は無理にしろ団体戦には出たいと思って、自分なりに頑張ったが、結局生選手にはなれなかった。「努力すれば勝ち穫れる」と思っていた私の痛い体験だった。

大学生活ー学問編

高校時代、歴史や地理や生物といった暗記科目は苦手だった。短期記憶力が弱くて、意味記憶に結びつかないと、あっという間に忘れてしまうのだ。試験前に一夜漬けしてなんとか対応するが、試験後にはすぐに忘れていく。また、面白みを今ひとつ感じられなかった。反面、人物・思想が魅力的だった倫理は好きな科目だった。
数学は得意科目だった。覚えるべき公式は非常に少ないにもかかわらず、多様な問題に対応できるので、非常にエレガントな学問だと思った。自然科学の礎(*1)であり、かっこいいと思った。今思うと口にすることさえ恥ずかしいのだが、数学者になりたいと夢見がちなことを結構本気で思った。数学を学ぶことが、諸科学への真理へも通じると思われた。
その当時の職業への見通しというのは、かっこよさだけで考えていて、今思うと現実味の無い、甘いことを考えていたように思う。囲碁棋士にないたいとか、研究職に就きたいとか、己の能力をよく見ずにうわべだけで職業を考えていたようだ。

難しい問題に対しても使う道具(公式、ルール)は同じで、万能ナイフだった。知識不足で解けないということはないのだ。教師の言うことはしっかりと理解できたし、問題集も真面目に解いて、学力は着実なものになった。
しかし、大学の数学は、高校とは違った。一気に抽象的な世界に行くし、「公式を覚えて解く」というスキームが成り立たなくなっていった。むしろ、公式や定理の導出方法を考える学問なのだろう。

大学は自由な校風であったが、楽しめなかった部分もある。その自由を充分に享受できなかったのが悔しい思い出となっている。羅針盤が機能不全になっていたのだが、その問題を自ら隠蔽していたようにも思う。
入学当初に数学はやめておいたほうがいいとある先輩から、おそらく好意から言われたが、やってみたかった。入学して履修登録したが、囲碁部が楽しすぎて、いきなり授業を休むようになって、囲碁部に入り浸った。

数学の授業は、休みながらも行っていた。図書館で学習したり、本も読んだ。1回生の線形代数微分積分学は、高校の延長でもあって、なんとか理解できるところもあったが、ε-δ法など基礎的(elemental)な部分がどうしうても頭に入らず、自分でうまく説明や証明できなかった。証明の回答を見ても、どこがポイントかよく分からなかった。しかし、1年生レベルは、まだ公式を覚えて、解くことで単位は取れた。微分積分学なら極座標変換、線形代数なら行列の正規化、複素解析学の留数定理などは出来た。2年生の専門科目になると、いよいよ苦しくなった。公理から始まり、そこから様々定理を導出する話になってくる。授業に出ても分からない。教科書を読んでも分からない。相談できる友達もいない。ましてや教員にも相談できない。

「集合と位相」では、位相という概念が結局ものにできなかった。群論ー群、環、体と一気に抽象化されて分からない。分からない以上に、分からないと言えないのも辛い。質問するのも自分の無知・努力不足が明るみになるので、恥ずかしてく怖かった。幾何は、多様体というものがそもそも理解できなかった。解析はまだなんとか単位が取れたが、それは理解によるものではない。解析の、カラ・テオドリの定理などは。計算の順序が交換できるという一見当たり前のことを詳細に証明した定理である。証明はできないけれど、計算はできるので対応できた。思うに私の数学力というのは、結局計算力に過ぎなかったのだ。深い基礎概念や定理の導出などは、正直お手上げだった。二回生後期の代数学の授業で教授の言葉が、宇宙語のように全く理解できず、演習問題も全く解けず、完全に打ちのめされ心が折れた。三回生では化学を選ぶこととなった。

化学系に行ったものの、実験が苦手だった。いろんな実験機器をうまく扱えない。説明のプリントを見ても、全然頭に入らない。クラスメイトは、きちんと頭に入っているようで、冗談をいいながら手際よく実験を進めている。イオン交換樹脂のカラムを扱うときも、うまく樹脂を円筒に詰められなかったり、流量をうまく調整できなかった。また、X線で測定するために、試料に圧力をかけて固めないといけないのだが、何度やってもうまく試料を作れず、実験パートナーに迷惑をかけた。はっきり言って、お荷物状態だった。

だんだんやる気がなくなり、実験レポートを出せず、担当教官がイライラしながら催促してきた。まだ講義の方が理解できた。そして、3回生の終わりに、研究室を選ぶことになる。全体の説明会は言ったが、その後の個別の研究室の説明会に行けなかった。何も選べなかった。自分が将来何をしたいのかがまるで分からなくなり、パニック状態となった。その頃にようやく学生相談所に行った。ギリギリで研究室を選んだ。それも研究内容ではなく、拘束時間の少なさという極めて不純な動機で選んだのだった。

(注)*1.数学者Eric Temple Bellによる"Mathematics: Queen and Servant of Science"(邦題:「数学は科学の女王にして奴隷」)という本があるそうです。