時系列順には書いてこなかったカテゴリー「人生の振り返り」の記事に目次を付け、リンクを貼りました。
(小学校ー大学入学)
(大学での不調ー就職)
(休職時)
(東日本大震災 回復体験)
(日本語訳)
"平安の祈り"
神様 私にお与え下さい
自分に変えられないものを
受け入れる落ち着きを!
変えられるものは、
変えてゆく勇気を!
そして、ニつのものを
見分ける賢さを!
(原文)
"The Serenity Prayer"
God grant me the serenity
to accept the things I cannot change;
courage to change the things I can;
and wisdom to know the difference.
主人公は、仕事に行き詰まる教師。代わり映えのしない一日を繰り返す。生徒は移り変わっていくが、教師側は何も変わらない。教育論をぶつける相手もいない。なんとかそれに相当する人物(「メビウスの輪」というあだ名)がいても、話して行くうちに噛み合わず、理想的過ぎるといわれる。そして、主人公の長期休暇を他の同僚と同じようにやっかむことに失望。行き先を告げずに休暇に入ることをさらに意固地にすることになる。
夫婦生活も停滞している。淋病にかかったのを気に、性交渉も遠ざかり、仲は冷え込んでいる。
庭に新種の昆虫を見た主人公は、昆虫図鑑に発見者として名前を残すことを夢見て、休暇を取り砂丘のある村へやってくる。
最初に読んだのは大学生の頃で、新潮の百冊に入っていたことを契機に読んだ。その後、安部公房の世界に入るきっかけとなった彼の代表作だ。私の精神的危機に際し、よりどころとなったのが安部公房だ。
それから30年たち、主人公の苦悩と私の苦悩が重なるように感じる。
昨日の「さみしさの大研究」で、砂の女を取り上げてみた。
今の私の仕事の行き詰まりを物語を援用しながら語れた。ほどよい語りになると思えた。
X(旧twitter)で、高知東生さんの発信を読んでいました。薬物依存症当事者の経験に基づく啓発活動に興味を惹かれ、手に取ることにしました。また、マイノリティの語りには、もともと興味を持っていました。
帯の文からして、「任侠の男の愛人に生まれて~」とあり、壮絶そうな幼少期と思いました。
成り上がり志向で、切れやすい性格だけれども、どこか臆病で人を信用することができない。おそらく、安心することの無かった幼少期に起因するように思います。
芸能界の後輩が、ある方を怒らしてしまい、無関係な高知さんが一緒に丸刈りになって謝りに行ったというエピーソードが面白かったです。高知さんとしては武勇伝エピソードとしてインタビューの合間に雑談として語ったら、記者やカメラマンがポカーンとしていたそうです。
「それは良いことですか?」と仲間(恐らく薬物依存症の)に言われ、独りよがりの美学に気づいたと書かれています。
こういうことを私もやっていると思う。問題の切り分け、自他の境界線を明確に区切れないからこそやってしまうのだと思います。本人に悪気はなく、良かれと思ってやっているのだと思います。
「ゆがんだ美学」によって苦しめられていたと認識することによって、高知さんの認知が変化していったようです。
対人トラブルもいろいろと書かれていますが、最初の芸能事務所社長や元妻高島礼子さんなどの出会いが彼を支えてきたのだと思います。
高知東生さんは、対人関係でめっちゃ不器用な方なんだと思います。よく見せようと思って取る行動が裏目に出たり。いろいろとしんどかったんだろうなと思いました。
薬物も最初はたいしたことがないといった拍子抜けの感じで、やめていた時期もあったそうです。仕事が成功してもどこか満たされず、不安を紛らわすために、薬物にまた手を出していった。エステビジネスの経営の苦労は相当大変だったようです。そしてとうとう麻薬取締官(通称:マトリ)に逮捕される。そのとき、「来てくれて、ありがとうございます」と言ったそうです。ふざけているというように捉えたテレビコメンテーターもいたそうですが、正直な気持ちだったそうです。
逮捕後、仲間と出会い救われた体験をこうして伝えてくださったことに感謝したくなりました。高知新聞にての連載は、幼少期や家庭のことも書かれることに抵抗もあったそうですが、「みんな知ってますよ」の一言で、気が楽になったそうです。
脇道にそれますが、薬物に手を出してしまった芸能人同士の話で、警察に捕まったのかマトリに捕まったかで盛り上がるところに、清原さんは組対五課と答え、「お~、組対五課と聞くとなんとなく『さすが大物』って感じがするよね~」と冗談が出た話も面白く、ほっこりしました。
アディクションに関しては、他人事ではないと感じます。アディクションに走る人を非難するのではなく、そこに至った経緯を知ることが大事ではないかと思います。
私は当事者研究が好きで、自分で開催したり、他の会にも参加したりしています。ほっこりお話できるのが楽しいですね。
当事者研究の魅力を伝え、もっと知っていただければと思うのですが、説明下手なために、当事者研究がどういったものかうまく説明できずにいて、困っています。
『ツレがうつになりまして』で有名な漫画家細川貂々(ほそかわてんてん)さんが、当事者研究の入門書を書かれています。私が説明するよりも遥かに分かりやすい本です。
当事者研究に出会うまでの生きづらさ、べてるの家への訪問、当事者研究の場の一つの「そーね」への訪問、貂々さんの実践という4章構成になっています。
よろしければ、手に取りお読みください。そして、当事者研究に興味を持っていただければ幸いです。
いつごろか、高速道路のトンネルの暗い闇をずっと一人で走っているように感じる
カーナビが故障し、自分の進んでいる道が正しいのか正しくないのか、目的地に近づいているのか遠ざかっているのかさえ見積もれず、パニックを起こしそうになる
そもそも目的地なんてものがあったのかさえ思い出せない
孤独で、悩みを共有できない。苦しく、窒息しそうになる
SAに降り立ち、現在地を確認すれば、他の車ははるか遠方にいる。たまに出会っても、既に所用を果たし、戻り方向で出くわしただけなのだ
彼らはそれなりの地位におり、家庭を持ち、趣味も持つ
何一つ勝てるところがないと思うと、とたんに自分がみすぼらしくみじめに思える。
「それでいい」とはとても思えず、打ちのめされる
自分の価値を見いだせず、自己否定してしまいたくなる
成長できない、進歩できない自分がいる
結局、「この道で間違っていない」と言ってほしいのだ
でも、なかなかそういう機会はない
自分自身が納得できるかどうか?
常に猜疑心と戦いながら生きていくしかないのかもしれない
今日もまた、さみしい高速道路のトンネルを走り続ける
GWに「さみしさの研究」をしました。
そのとき思ったのは、さみしさは、ヨーヨーやリマインドメールのようなもの。
過去に棚上げしておいたものが、連休中の時間のあるときに現れる。
「ま〜た、お前か!」という腐れ縁の友達のような存在。
もてなして、また帰っていただくのが一連の儀式
当事者研究はに参加してくれる仲間に感謝しています。
サイレントになっているよりもサイレントにさせられているのだと思う。
つまり、黙らされているのだ。
やさしく弾圧されている。
声を上げたい、でもその勇気がない。
いつもそこで悩む。
弱いものがより弱いものを叩く。
悲しい構図
声を上げないことによって、私自身も加担しているのかもしれない。
なお、悲しい。そして、さみしい。