心の椅子

精神的支えのことを「心の椅子」と呼んでいます。思わぬ体調不良の予防に役立つと思い、このブログを立ち上げました。

山田太一ドラマ「今朝の秋」

2023年末に脚本家の山田太一が逝去され、「今朝の秋」というドラマが再放送となりました。
主人公の隆一(杉浦直樹)は、働き盛りの50代だが、ガンで余命僅かで病院に入院中。告知はされていませんが、男を作り家を出ていった母タキ(小料理屋をやっている)(杉村春子)が来て、お手伝いさんのようなことをし始めたり、離婚話を切り出された妻悦子(ブティックを経営し不倫していた)(倍賞美津子)が急に面倒をみてくれたりで、自分の余命を勘づきます。
長野県蓼科に住んでいた父鉱造(役:笠智衆)は、嫁の知らせで、東京まで面会に行きます。「したいようにさせればいい」と友人から言われ、「蓼科にいってみたいな」というつぶやいた主人公の言葉を真に受けて、無断離院(!)の形で連れ出し、蓼科までタクシーで連れて行く。母は連れ戻しに追いかけてきたが、隆一にせがまれ、一緒に過ごすことにする。妻子もやってくる。
同じ山田太一脚本の「岸辺のアルバム」でも、妻の不倫はテーマの一つだったな。蓼科に行く間に、悦子と娘の会話シーンも強烈で、娘が「偽物の一家団欒ね。知っているの、お母さんが不倫していることを」
悦子は、「お父さんと違う人を好きになることもあるの」と切り返す。
最終盤で、男は寝そべりながら、家族と過ごす。父も娘も寝そべっていたような気がする。夏みかん(砂糖がふんだんにかかっている!)を皆で食べようとしている。
「ああ、家族っていいもんだなと錯覚しそうだよ」というぼつりとしたセリフが刺さる。
終わりよければそれで良しなのか、それとも…
最初はタキの顔を見るのも嫌がっていた鉱造だが、隆一がなくなり、東京に帰ろうとするタキを引き留めようとする。しかし、タキは断り、「意地を張ったんだから、もう少し頑張ってみる」と言い去っていく。
https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010435
NHKによる詳細な記事
文中のセリフはうろ覚えなので、細部は正しくないです。興味があれば、実際に見てチェックしてください(笑)

不注意

今冬初めての雪で寒いのにマフラーを忘れる。
やかんの空焚き、風呂のお湯張りの閉め忘れ、洗濯機は終わっているのに置きっぱなしをすることもある。
仕事も部屋を出た途端に忘れ物に気づく。会議を忘れることもある。
これを書いている最中に降りるべきバス停を乗り過ごしそうになった(笑)

【さみしさの研究17】ASKA

ASKAが逮捕されたときは、ショックでした。熱烈なファンというほどではないですが、チャゲアスASKAソロのCDアルバムも何点か持っていて、好きな歌手の一人でした。逮捕報道以降は、聞くことをためらいました。聞くことによって、いかなる理由でも正当化できぬ薬物に手を染めたことを認めることになりはしないか…
そんなことを思っていたのでしょうか?

その後、福祉の仕事をするようになり、また薬物依存症は治療の難しい病気と知りました。一時の快楽を求めてというよりも、むしろ孤独さや苦しみから逃れるために、薬物に手を出してしまったのではないかと考えが変わっていきました。

その後、ASKAが活動を再開し、新聞にコンサートの広告が出ていました。そのときは、まだ聴けませんでしたが、さらにもうしばらく時間が立ってから、恐る恐る聴きました。ASKAのパワフルな歌声、繊細な詩といったものが、薬物によって壊され、落ちぶれた彼の姿をみせられたら、どう受け止めていいのかを恐れていたのかもしれないと思いました。そして、それは杞憂でした。還暦を迎えても、なおパワフルな歌声でした。そして、歌詞はますますストレートにさみしさや人間の孤独に向き合ったものでした。以前よりも、もっとASKAが好きになりました。

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【さみしさの研究16】オープン・ユア・アイズ

主人公セサルは、イケメンでプレイボーイの金持ちの息子。親の遺産がたんまりあり、また女性にも不自由しないという羨ましすぎる境遇の若者。
冒頭、車を車庫から出して街中を走行する。ふと違和感を感じて、車を降りて周囲を見渡すと、街に誰もいない。主人公は驚き誰かを探し、目が覚める。夢だったのだ。このシーンには、観ている私も不安になった。

私たちは、街に住んでいて、日々名も知らぬ人々とすれ違い、生きている。人と人との関係は希薄にならざるを得ないが、誰もいない状況というのは、恐怖感がある。コロナ禍、仕事を終え帰宅すると、独り身の私は、PCに向かい、ある意味引きこもりのような生活になっている。コロナ禍の以前からそういう傾向はあった。今、コロナは五類になっているが、生活はそれほど変わっていない。人と近い距離で接するのが苦手。でも、まったく一人で生きろと言われれば、さみしくて耐えられない。そんなヤマアラシのジレンマを抱える。しかし、程度の差こそあれ、私だけの状況ではないとも思う。

映画の筋は、固定した女性関係を持ちたくないが、そういった関係を迫ってくる女性ヌリアがいる。一方、セサルはストリートパフォーマーの女性ソフィアに気が行く。ヌリアとのドライブ中転落し、大怪我をして、大事な顔を損傷する。整形外科的に手の施しようがなく、仮面を被る生活を余儀なくされる。しかし、手術を受け、奇跡的に元通りになる。その頃から、おかしなことが頻発する。
ヌリアと思っていた女性がソフィアだったり、ソフィアと思っていた女性がヌリアだったり。
何が真実が分からなくなっていく…

映画を通して、とても不安にさせられる。そして、何不自由なく生きてきた主人公もまた孤独だったのではないかと思う。

スペイン映画であり、後にハリウッドで「バニラ・スカイ」としてリメイクされたが、私は未見。

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映画『レナードの朝』

今日は、午前十時の映画祭で『レナードの朝』という映画を観てきました。
神経の難病で何十年も無反応で過ごしてきた患者(ロバート・デ・ニーロ)が、新任の医師(ロビン・ウィリアムズ)によるケアと新薬によって、立ち上がったり話せるようになったりと劇的に回復します。音楽を楽しみ、外出もできるようになります。
しかし、副作用のために、痙攣が起こり、やがてまた以前のような状態に戻っていきます。
回復の見込みがないと悟り、思いを寄せる女性に病院の食堂で別れを告げますが、女性が引き止め、踊ったことがないという男にその場でダンスを踊るシーンが泣けました。

午前十時の映画祭シリーズを見ていますが、今年だけでも『ディア・ハンター』『レイジング・ブル』『ゴッドファーザーⅡ』、去年も『未来世紀ブラジル』があり、デニーロ出演率が高い(笑)と思いました。本当にそれぞれの作品で、役に入り込む(当たり前といえば当たり前なのでしょうが)姿勢がいいですね。

細川貂々さんと当事者研究

ツレがうつになりまして」を読んだときは、生真面目でうつのツレさんに切れることはあるけれど、ツレさんを支える寛容でホンワカした奥さんというイメージでてんてんさんを捉えていました。
「生きづらいでしたか?」やその刊行時のトークイベント(釈先生やNPO「そーね」の一ノ瀬さんと)
https://www.loft-prj.co.jp/schedule/west/114228
では、ご自身を「ネガティブ思考クイーン」とおっしゃり、大分イメージが違うものを感じました。

てんてんさんは、生きづらさを赤裸々に描かれるところが面白くて、そういうときの言葉にある種のリアリティや重みがあり、すごく伝わってくるものを感じました。
当事者研究では、そういう言葉を大事にしたいなと思っています。

でも、いきなりうまくやれるはずもないのかなと思っております。
「生きづらいでしたか?」では、『「そーね」の当事者研究がはじまって4年くらい経つのですが
3年目くらいまではものすごく苦労しました』と一ノ瀬さんの苦労が書かれています。
「自分の苦労をお話ください」と提案しても、なかなかお話されない様子が描かれています。

それはそうだろうと思います。場や相手を信頼できぬうちは、お話できないものだと思います。
だから、「無理に話してください」とは言わないつもりです。雑談で終わればそれも良しと思うのです。

zoom上の私の当事者研究も、第一回目は誰も来ないところから始まりました。
2回目はFacebook上の友達のつてを使い、呼びかけ人を集めました。
とりあえず来てくれた人、これからも参加してくれそうな人がでてきて、少しずつ場が温まっていったようです。
軌道に乗るまで、最低一年くらいはかかったのだと思います。

そんなわけで、新しい場所でリアルでやらしてもらう当事者研究、あるいはお話する場も、最初からいきなりうまくいくはずもないのだと思います。スタッフや参加者の力を借りて、少しずつ形にできたらいいなと思っています。ぼくなりに「種をまきをみずをやり、場を育ててみたい」と思います。

【さみしさの研究15】さまざまなさみしさ

さみしさにも色々と種類があるようだ

大学時代の飲み会の中で、話をうまく盛り上げられずに感じる孤独感
飲み会前は盛り上がりたいと願うが、大抵そうはいかず、帰り道に一層さみしさを感じた
そもそも、飲み会で急に深まるような関係って、なんだか一過性のような気もするが…
→ このときに感じるものは、「(行き場のない)やるせなさ」というもの

家族に対して、大事な話をしているのにまるで伝わらない
こちらは大真面目で伝えているのに、相手は聞く耳を持たない
話半分で取り合おうとしない
怒りで沸騰しそうな気持ちも抑えないといけない日はつらいものがあった
→ 「言葉や気持ちが伝わらない悲しさ」というもの

連休の最終日、誰にも会わずに一人過ごす
そういう日が暮れかかる夕方頃に感じるさみしさ
「今日は何もできなかった」とふと感じる
→ 「虚しさ」に近いもの

それだけならまだいいのかもしれない
次の日に職場で「連休何をしていましたか?」と尋ねられ、何もなかったことを語らされ、
「さみしい人」と思われることを一番恐れているとあるとき気づいた

さみしさにも実は、いろんなものが含まれている
いいさみしさもあれば、悪いさみしさもある
後者は放っておくと致命傷になる

ただ、人間本来がさみしいものだとも思う
結局は一人で生まれ、一人で死んでいく存在なのだ
その孤独に関しては逃げることはできない

過去のいろんな体験が僕を作り上げてきた
その中には、さみしさや傷も含まれている
さみしさから逃げられないのであれば、それを噛みしめて生きたいと思うのだ

【さみしさの研究14】自問自答

年末に当事者研究を主宰し、自分のライフワーク的研究テーマである「さみしさ」について語った。その中で、さみしさに種類はないのかと尋ねられ、その場ではうまく答えられなかったが、考えるとても良い契機になった。さみしさというコトバで漠然としか捉えられていなかったものが、いろんな面を持っていると思えた。その他にもいろんな有用なコメントをもらい、研究が深まった。以下、その後考えたことを問答形式で書いてみる。

「単に一人でいるときがさみしいのか?」
そうではない。最近、帰宅後にネット将棋に没頭している。そういった一人でいる時間は、苦にならずむしろ好んでいる。それでも、ふとした瞬間にさみしさを感じる。連休時は特に強く感じる。出勤すればそれなりに話すこともあるが、休日になると本当に誰も話さない。誰か特定の人に会えないさみしさというのはなく、漠然としたさみしさを感じる。

「パートナーや家族がいれば、さみしくないのか?」
恥ずかしながら交際経験がないのでよく分からない。しかし、経験者によると、居てもさみしいものはさみしいものらしい。

「さみしさを感じることは悪いことか?」
そうではない。さみしさを感じることは、一種のセンサーであり、なにか大事なことを伝えてくれているのだ。無視するのではなく、その声に耳を傾けたい。利き酒での甘い辛いのように、さみしさの種類をもっと細かく表現できるといいなと思う。

「やばいさみしさとは?」
逆に大勢の中にいるときに、この中の誰とも通じ合えないと思えたとき(心理的孤立感と言っていいだろうか?)は、なおさらにさみしいものを感じる。

「怖いことは?」
連休明けに、「どうしていた?」と聞かれるのが怖い。一人で過ごしたことよりも、さみしい奴、誰とも繋がれない奴と思われることは怖い。

「対処法(コーピング)は?」
こうやって、当事者研究をするときに、仲間が集ってくれるのがうれしい。これが一番の対処法である。また、文学や音楽も、さみしさを感じさせる作品が好きだ。安部公房の「失踪」「疎外」のテーマ、ASKAの泥臭い歌、さみしいときにこそ触れたい作品だ。

また、GWや年末年始に呼びかけようと思う。集まってくださった方々に改めてお礼を言いたい。

映画「恋におちたシェイクスピア」

映画『恋におちたシェイクスピア』を観てきました。

ロミオとジュリエット」を書く直前のシェイクスピアはスランプに陥っていますが、ある日恋に落ちます。相手は、実業家の娘で、貴族から求婚されます。まるで、「ロミオとジュリエット」のような話です。

芝居小屋の興行主は火の車で、冒頭では、マフィアに締め上げられています。その興行主が、芝居にのめり込み、薬屋の役をもらって、大はしゃぎするのシーンがツボりました。
また、演劇が公序良俗を乱すと訴えていた人が、幕の終わりに拍手していて、「アンタ、観てたんかい!」と突っ込まずにおれませんでした。
ドタバタもあり純愛もあり、最後まで楽しめました。

映画「未来世紀ブラジル」

テロリスト(もぐりの配管修理)タトル氏と間違われ、クリスマスの夜に拘束され、尋問された上に死亡するという哀れなバトル氏。その一回上に住むジルは、なんとかしようと役所に陳情に訪れるが門前払い。さらに、間違いを追及するために政府から命を狙われることになる。ジルに一目惚れした役人ラウリーは、彼女を救うために動くが、彼自身も追われる立場になっていくというあらすじ。

『午前十時の映画祭11』で、去年京都シネマで観た。
小さなシネマでも、スクリーンには迫力があった。
何回も観ているはずだけれでも、小さな発見があった。

・逮捕されるバトル氏には、セリフが一切ない
・レストランの料理、ムース状で、まずそうだよな。うまそうな写真が乗っているだけに、なおさらみすぼらしい。
・カーツマン局長が骨折したと言ったのは、やはり仮病だった。
・バトル夫人に小切手の裏書きを依頼に行くシーン、子どもたちのいたずらで車が炎上するが、子どもたちが油のタンクを持つシーンに今まで気づかなかった
・女性の名前がジルであることを教えてくれる少女は、バトル氏の娘。冒頭で頭をケガしていたな。
・管理職必須のアイテムが、YESかNOかを決めるもの(ジョークアイテム)。ジルの付け届けもそうだったようだ。
・火力発電所?ごみ焼却施設?で、コンテナハウスを車に積む。ジルとともに逃走できたと妄想のシーンでは、森の中でそのコンテナハウスで暮らすものだったんだな。
・最後のタトルの体の周りに紙がまとわりついて剥がせなくなる、そしてラウリーが剥がすとタトルがいなくなる悪夢的シーンはやはり鳥肌モノ。

ブラックユーモアがふんだんで、テリー・ギリアム的な映像世界が素晴らしいと思う。
政府の情報統制、無謬性など、映画の世界と思っていたものが現実化しているようで、さらに怖くもなる作品だ。