心の椅子

精神的支えのことを「心の椅子」と呼んでいます。思わぬ体調不良の予防に役立つと思い、このブログを立ち上げました。

【さみしさの研究14】自問自答

年末に当事者研究を主宰し、自分のライフワーク的研究テーマである「さみしさ」について語った。その中で、さみしさに種類はないのかと尋ねられ、その場ではうまく答えられなかったが、考えるとても良い契機になった。さみしさというコトバで漠然としか捉えられていなかったものが、いろんな面を持っていると思えた。その他にもいろんな有用なコメントをもらい、研究が深まった。以下、その後考えたことを問答形式で書いてみる。

「単に一人でいるときがさみしいのか?」
そうではない。最近、帰宅後にネット将棋に没頭している。そういった一人でいる時間は、苦にならずむしろ好んでいる。それでも、ふとした瞬間にさみしさを感じる。連休時は特に強く感じる。出勤すればそれなりに話すこともあるが、休日になると本当に誰も話さない。誰か特定の人に会えないさみしさというのはなく、漠然としたさみしさを感じる。

「パートナーや家族がいれば、さみしくないのか?」
恥ずかしながら交際経験がないのでよく分からない。しかし、経験者によると、居てもさみしいものはさみしいものらしい。

「さみしさを感じることは悪いことか?」
そうではない。さみしさを感じることは、一種のセンサーであり、なにか大事なことを伝えてくれているのだ。無視するのではなく、その声に耳を傾けたい。利き酒での甘い辛いのように、さみしさの種類をもっと細かく表現できるといいなと思う。

「やばいさみしさとは?」
逆に大勢の中にいるときに、この中の誰とも通じ合えないと思えたとき(心理的孤立感と言っていいだろうか?)は、なおさらにさみしいものを感じる。

「怖いことは?」
連休明けに、「どうしていた?」と聞かれるのが怖い。一人で過ごしたことよりも、さみしい奴、誰とも繋がれない奴と思われることは怖い。

「対処法(コーピング)は?」
こうやって、当事者研究をするときに、仲間が集ってくれるのがうれしい。これが一番の対処法である。また、文学や音楽も、さみしさを感じさせる作品が好きだ。安部公房の「失踪」「疎外」のテーマ、ASKAの泥臭い歌、さみしいときにこそ触れたい作品だ。

また、GWや年末年始に呼びかけようと思う。集まってくださった方々に改めてお礼を言いたい。