心の椅子

精神的支えのことを「心の椅子」と呼んでいます。思わぬ体調不良の予防に役立つと思い、このブログを立ち上げました。

研究室時代

実験系の研究室に入った。研究機器には触ることなく、院試の勉強をしてくださいというスタンスだった。院試を受けない人にとっては、何の制約もないことになり、就職活動に専念する人もいれば、自分の道を探すという人もいた。私は就職する気にもなれなかった。働くことが怖かったし、人と触れるのが怖かった。会社でうまくやれるイメージを持てず、ただ怖かった。勉強することは嫌いではなかったが、修士課程に進むことは、勉強を積極的にすると言うよりも、モラトリアムの延長という意味が大きかったと思う。

研究室を選べずパニック状態で引きこもっていた私も、なんとか研究室を選べたこと、学生相談所につながったことや院試合格という共通目標を持てたことでまた少し安堵感を持った。実際、院試の過去問を解く勉強はそれほど苦ではなかった。同期と勉強会にも参加した。結果は無事合格。面接では、相図(温度、圧力、組成などで、物質が気体・液体・個体の相を取るのかを現す図)をきちんと理解しているとほめられた。

院試後は、同期4人で、研究し発表することとなった。研究内容と何をしたかも覚えていない。興味をもってやれたわけではなかったのだろう。

修士1回生に進むが、K先輩の下につく。毎日来れず、ちゃんと機器を扱えず、その時点で落第のようなものだった。K先輩は、「それでは駄目だ」とダメ出しをしたりしたが、そのとおりだと思った、K先輩は有言実行の人ですごいなと思ったし、敵わないと思った。きちんと目標設定し、逆算し段取りを組み、きちんと行動する人で、私とは違い教員からの信頼も厚かった。兄のような頼もしさを感じた。

K先輩は、助教授が設計した観測機器を組み立てることから始めていて、実験データを取れるようになるまでスタートアップの時期にはなかなか足踏みの状態が続いたようだった。へこたれる様子を見せずに、淡々とやれることをやるという態度だった。

私ではK先輩のパートナーにはなれないと見越してか、助教授は卒業予定のO先輩があく実験機器をあてがってくれた。しかし、本当に実験機器の不調が多く、クラッシャー状態だった。私のミスで不調にしたのもあるし、なんだかよくわからないけれど不調になるのもあった。それに対して、何が原因で、どういうアクションをすべきかを判断するのも実験屋のセンスなのだが、そのセンスもなかった。ただただオロオロして、装置に触るのがおっくうになり怖くなっていった。O先輩のときはちゃんとデータが取れていたものを私はまったく引き継げなかった。無能としか言いようがなかった。恥ずかしいことに、金曜日の研究報告会も何も成果を言えなかった。

修士論文は本当に中身のない、コピペ論文だった。論文不正事件の際に、修士論文や博士論文のひどいものがあると言われるが、私の修士論文のでき悪さは、どうしようもなかった。何しろ、訴えたいものがよく分からなかったし、データが全く無いのだから、どうしようもない。教員も頭を抱え、早く卒業することを望んでいただろう。

研究室で発表練習しても、取り繕いようのないものはどうしようもない。最後の研究室発表では、教授から「君が英語がしゃべられないのは分かっていたが、日本語もしゃべられないんだね」と言われ、心に深く刺さった。
本番が、10分の持ち時間があり、質疑応答が嫌ならば、できるだゆっくり喋って時間を稼ぐようにアドバイスされたが、私の特性上、アガると早口になり、終わってみるとまだ残り時間が4分もあった。質疑応答で質問されたが、何を尋ねられどう答えたかよく覚えていない。「終わった。全てが終わった」その日から、一ヶ月以上大学に行かず、引きこもった。歓送迎会も無視していたが、結局行った。

材料メーカーへの内定は取っていたが、果たして入社式に行けるのだろうか?まったく自信がなかった。なぜなら、その時点で私はもう壊れていたのだった。すぐに精神科のストレスケア病棟に入院していいレベルだったと思う。失意の中、酒で気を紛らわし、テレビをみるだけの退廃した生活だった。その頃のことはよく覚えていない。大学生活、まじめに勉強しなかったこと、不純な同期で研究室を選んだ報いとも思えた。