心の椅子

精神的支えのことを「心の椅子」と呼んでいます。思わぬ体調不良の予防に役立つと思い、このブログを立ち上げました。

就職と終戦記念日

傷心の修論発表後ひきこもり生活をしていた。内定をもらっていた会社に行けるかどうかさえ自信がなかった。入社式に行き、片田舎の工場で一年間研修を受けることになった。研修とは言え、人手不足の現場の応援の意味合いもあった。
なんとか頑張って、やり直そう、立て直そうと思った。同期すべてが入寮し、生活をともに出来たことが、心の安定につながったと思う。仕事の内容は、検査業務だった。ただ扱うものが1個20kgするものもあり、汗をかく肉体労働だった。肉体労働は好きではないが、そのときは心にプラスになったようだ。最初の日が夜勤できつかったけれど、なんとか一年間やり通せた。入社して、寮でF君に呼び止められ、お酒を誘われた。F君とは、退社後も遊びに行ったりして、付き合いが続いた。

大学の精神科からの紹介状を頂いた。しかし、具体的にどこかを紹介してほしいと伝えても、よく知らないと言われた。その精神科医が不親切だいうつもりはなく、これはよくある話で、実際その後も引っ越しのたびに、転院先をどうするか悩んだ。(私は今精神科病院の相談員をしているので、患者にとって転院先探しが結構大変なことはよくわかる。精神科医に探す時間的余裕はない。相談員が配置されていればいいが、そういった医療機関は少ないのだ。)
初めての土地で、どの医療機関の評判がいいとかわからない。でも、薬が切れないように、予約をとらないといけない。引っ越しのストレスで、しんどい状態で、すべてを自分でこなさないといけないのはつらかった。よくわからなくて、公立の医療機関へ行った。しかし、あまりに遠くて、近くの病院を紹介された。交代勤務なので、夜勤終わりに受診することもあった。カウンセリングを受けたが、カウンセラーがとぼけた人で、あまり効果がないと感じた。一度手紙にしてみてもらおうとしたが、「そうですか」と言って、何も目を通さないのには失望した。医療機関にもヘンな人はいる。それは今でも思うし、その中に私も入っているのかも知れない。医療・福祉への失望につながるかも知れないが、あたりはずれはある。その覚悟は、職員にも患者にも必要なのかも知れない。

他部署に一日だけ応援に行く日に、4時間!寝過ごしたことがある。6時勤務開始の朝勤務の時に、目覚めたら10時だった。いつもの部署に行って、上司に報告したら、「えっ」と言われ、後で課長から注意を受けた。同期で遅刻する人はいたが、さすがに4時間遅刻する人は私の後にも先にもにはいなかった。
同期の中に気の合う人も気の合わない人もいたけれど、同じ屋根の下を一年間過ごすのは、高校時代の親密さを思わせた。だから、まがりなりにも一年間頑張れたのだと思う。

二年目は別の工場で開発職となった。その部署は、上司や先輩の目つきが尋常ではなかった。みなイッている目をしていた。笑いがないわけではないが、みながワーカホリックだった。土日のうち、どちらかを勤務するのは当たり前、朝勤務の始まり前(6時)に来て、夜勤始まり(18時)に帰るような生活だった。残業時間は200時間の枠で組合とは話をつけていると言われた。実際に、200時間まで働くことはなかったが、恐ろしく過酷な労働環境だった。きちんと残業手当はついたが、体がもたなかった。そんな勤務をしていたので、精神科に行くことすらできなかった。

精神科薬が切れてしまった時期もあり、まずいと思い、総合病院の精神科に行った。その精神科医がちょっと面白い人だった。社会人経験を経てからの精神科医で、私が職場のしんどさを話すと、精神科医は、研修医時代麻酔科医にいじめられて苦労しただとか、ご自身の苦労を語ってくださった。半年しか福井県にはいなかったので、それだけの間の診察だったけれど、印象に残っている。あるときは、友人が撮ったオーロラの写真をメールで送ってくれたこともあった。

実験計画書を出すように言われたが、そのやり方がわからず、できなかった。必要な実験器具をどうそろえていいかも分からなかった。先輩は常に忙しそうで、教えてくれる余裕がなさそうだった。22時会社に居残って、どうやっていいかわからず、途方にくれていたら、先輩からファミレスに呼び出され、説教された。

良品を全く出せずに困った。製品数もいつのまにか、当初の2倍、3倍になっていった。
「そんな!まだ、良品をうまく出せていないのに」と思ったが、上司はお構いなしのようだ。

会社に寝泊まりしていた。ゴールデン・ウィークに休みはなく、四六時中働いていた。作業中に立ったまま寝ていたこともあった。寮に帰る際、自動車を運転中、眠気に襲われた。すこし渋滞していたとき、停車したときに眠気が強くなる。前の車に突っ込んではいけないと思い、ブレーキを強く踏んだ。その次の瞬間、景色が飛んだ。やはりブレーキを踏んだ。しかし、前方に車は見えない。よく見ると、既に寮の駐車場にいて、ニュートラルでハンドブレーキも引いていた状態だった。事故にならなかったことは良かったが、非常に危ない状態だった。

体調が悪く、会社の研修を休んだ。その頃から休みが目立った。上司に異動をお願いしたが、「今、君を行かせる部署はない」と言われた。辞職願は一回無かったことになったが、結局退職することとなった。退職日が終戦記念日だった。私の心も敗戦一色だった。

大学に続き会社でも不適応を起こす。そして、それはある意味予想通りだったとも言える。