心の椅子

精神的支えのことを「心の椅子」と呼んでいます。思わぬ体調不良の予防に役立つと思い、このブログを立ち上げました。

劇「精神病院つばき荘」

東大阪のイコーラム・ホールで「精神病院つばき荘」という劇を鑑賞してきた。

長期入院患者(高木)、注射の下手な看護師(浅田)、院長(山上)の3人芝居という構成だ。
作者のくるみざわしん氏は、東大阪精神科病院精神科医として勤務していたことがあり、里帰りのようですとのメッセージが読み上げられた。(なお、くるみざわ氏はコロナ罹患のため、出席できずに、アフタートークも声のみの出演となった。)

高木は、月曜日の朝のパン粥の話をし、「なぜ注射のうまい看護師からやめていくのか?」と院長に語りかける。取るに足らない、ありふれた退屈な話かもしれない。離職率の高い職業である。
しかし、院長はある事情(原発事故と関連する)から、切羽詰まっていた。あるお願いを高木にしにきたのだった。患者と院長が、やりとりがコントであり、会場からも笑いが起きる。しかし、私の中に笑いは起きず、胸苦しさを感じるものだった。
内容を言わずに、院長が患者にお願いしますと言う。患者から、「何のお願いですか?」と聞いてもはぐらかしてくる。精神科病院ではありがちなことだ。

原発対策で、院内の職員が二分されている。反対派が、長期入院患者で他の患者からの信頼の厚い高木に、患者ミーティングの際に、「原発対策が起こったときに、あなたはこの病院で死にたいか?」と質問するという情報をキャッチし、それをなんとか防ぎたい院長が、直々にお願いしに来たのだ。全容を話しても、それでも受け入れない高木を保護室送りにするという暴挙に出る。

劇中の3人は大真面目だが、それが一層滑稽であり、グロテスクな精神病院のシステム、日本のシステムが浮かび上がる。
対応に困るものを声を上げにくい僻地に追いやって、見て見ぬふりを決め込むものだ。精神病院だけではなく、原子力発電所や基地もそうだとのセリフがある。
日本は未だ封建時代であり、自分で考えるということをしてはいけないのだと言う。
このセリフを時代錯誤と笑えるだろうか?

現場の人間は、それぞれの職責を果たすべく一生懸命に働いている。患者もそう。
しかし、「とてつもなく大きな何か」によって、右往左往させれている。悪役めいた看護部長も理事長も、「とてつもなく大きな何か」たちにとっては、所詮小物だろう。

院長は、名前を失っていく。院長と呼ばれても、山上さんと呼ばれるのも拒否していく。しかし、保護室での高木と浅田との対話によって、人間性を回復し、高木を退院させる。
その5年後、つばき荘の近くで原発事故が起こり、山上は一人でカルテ読みの作業をしている。そこに、浅田と高木が助けに来るが、山上はカルテ読みの作業を続けつばき荘に残ると言い、劇は終わる。

「とてつもなく大きななにか」の前で、人間性を回復するには、発狂するしかなかったのかと思うとやりきれない。しかし、表情は、つきものがとれたかのような清々しいものとも思えた。

さて、精神病院のシステムは今日も動き続ける。そして、私もその部品のひとつなのだ。自分なりにやっていこう。そして、この劇のことをときどき思い出したいと思う。