心の椅子

精神的支えのことを「心の椅子」と呼んでいます。思わぬ体調不良の予防に役立つと思い、このブログを立ち上げました。

囲碁部の同期K君のこと

大学の囲碁部の話の続き。

K君という同期がいた。最初は、彼とはライバルになりそうと思っていたが、すぐにこちらが二子や三子を置くぐらいの実力差であることが分かった。彼はものすごく社交的で、あっという間に先輩とも馴染んでいった。引っ込み思案の私には、信じられないぐらのフットワークだった。先輩からの反発も多少はあったけれど、それも彼を対等にみてのことであり、羨ましく思った。

他大学へ交流に行っても、他大学の方の中に入って、楽しそうに喋っている・・・なんだコイツは・・・

一番恥ずかしかったのは、私の高校の後輩で強豪のM君を囲碁部に勧誘しろとK君が言ってきたことだ。M君のことは勿論知っていたが、彼は高校囲碁部には入っておらず、あまり接点が無かったのだ。それも言えず、放置していたら、いつのまにかK君がM君を部室に連れていた・・・恥ずかしい。私は何もできなかった。でも、K君は特に嫌味を言ったわけではなかった。K君は囲碁観戦記者を目指すことになった。プロの先生にも顔が利き、一度は競馬場で、テレビ棋戦によく出る有名なS1先生に声をかけていてビックリしたことがある。

 

ここまで書いて、K君をどうイメージされただろうか?敢えて言わなくても良いことかもしれないが、実はK君は脳性麻痺身体障害者であった。歩くときには、足の補装具を常につけていた。でも、その部分で、劣等感を感じさせない強さがあった。いや、強くあろうとしたのかもしれない。彼はかなりお酒に強かったが、帰りフラフラになっても、私の肩を借りようとせず、先輩の肩を借りていたことがあり、少し残念に思ったこともあった。ともあれ、前述のように、彼の恐るべき社交性には、大学時代ほとんど友達をつくれなかった私には羨むほかなかった。

K君の実家に行って、焼肉を食べたり、エヴァンゲリオンTVシリーズを徹夜で見たりもした。また、先輩宅で、K君と先輩と私の3人で、ビール1ケースを飲み干したりもした(当然、私は翌日吐きまくった)。あれだけ社交的だと、スケジュールも相当大変なように思うが、卒業後も何度か遊んでいた。

 

卒業後、彼は一人暮らしを始める。そのときは、そんな無茶をしていいのかと思った。でも、今はその方がいいと思う。自立できる人は自立したらいいのだ。

 

私が気分障害の患者になってから、彼と電話して、病状を言うと、「ああ、そうなんや」と言った。それはそれとして、焼肉を食べに行くことにした。その頃、彼は車椅子に乗っていた。二次会にラーメン屋に寄って、話をしていると、突然「碁を打とう」と言ってきた。碁盤があるまいと思っていたが、店から持ってきたのでビックリした。聞くと、置かせてもらっていたのだという。これも彼の社交性の賜物だ。

 

しかし、あるとき、本当につまらないことで彼を怒らせてしまった。あることの返事を待っていたのだが、なかなか返ってこなかったので、しつこく催促してしまったようだ。そのあと、「忙しくて、お返事できなかったのです」と妙に慇懃な文体で返ってきた。その後は、もう連絡が取れなくなった。

私も病気で調子が悪いときもあり、放置していた。あるとき、どうしているかなと思い、彼の名前で検索してみた。とすると、ネットニュースに彼の訃報が乗っていた。声も出なかった。

実家の連絡先が乗っていたので、彼の父親に連絡して、会いに行った。心臓麻痺だったらしい。解説をしてもらうためにプロのS2先生と会う約束をしていたが、いつまで経っても来ない。心配して、S先生がK君の近くに住む先生に声をかけて見に行ってもらったら返事がない。救急に電話して、部屋を開けてみたらすでに亡くなっていたという。どうも、前日お酒を飲みすぎていて、しかしS2先生と会う前にシャワーを浴びて心臓麻痺になったのではないかと父親は言っていた。祭壇には、彼の好きなビールが置いてあった。「日替わりでビールの銘柄を変えているのです」と言っておられた。

 

すごくショックだった。私の方はやっとグループホーム世話人として働き始めた頃で、なんとか調子が上向きつつある時期だった。彼の訃報を聞き、何故か「彼の社交性を1/100でも真似しなければならない」と思った。その頃から、当事者研究や哲学カフェ、カルチャースクールの哲学講座に行くようになった。初めての人でも、こちらから話しかけてみたり、講演の質疑応答の時間で手を挙げるようになった。もちろん、どうやってもK君の社交性には敵わないが、私の新たな人生の扉を開けるキッカケを与えてくれたようにも思うのだ。